山口家とは

山口家は、刈羽郡小国(新潟県長岡市小国町)において豪農であるともに、大庄屋として地域を取り仕切っていた一族です。明治時代に入ってからは、新潟県議会議員を務める一方、地元の有力者を集めて誠之社を設立。石油、鉄道、金融、電力等多くの事業を起業、新潟県の発展に大きく寄与しました。
初代山口万吉はその山口家の分家として、江戸末期に表三之町(新潟県長岡市)で家を起こし、後に小間物商「山万商店」を設立しました。その後3代目山口万吉が戊辰戦争下の長岡に物資を調達することに商機を見出し、戦火を潜り抜けながら大きな財を成し、戦後は長岡の復興に尽くしたと言われています。

5代目 山口萬吉とは

「旧山口萬吉邸」の施主である5代目山口萬吉(以降「山口萬吉」)は明治30年に生まれ、20歳前に母方叔父を頼って米国へ渡り、8年間勉学等に勤しみ帰国します。帰国後、早稲田大学の教授であり、その後「耐震構造の父」と呼ばれる内藤多仲と出会います。関東大震災を体験した山口萬吉は内藤多仲が考案した耐震構造理論に共感を受けると共に、木子七郎、今井兼次の協力と自らが米国で得た知見を加え、旧山口萬吉邸の建設に着手します。
山口萬吉は、芸術的感性にも優れ、建物はもちろんのこと家具・建具装飾にも強いこだわりを持っていました。現在でもその一部が建物内外に多く残されていますが、これら家具・建具装飾は和室を除き鳩山一郎邸等の家具を手掛けた梶田恵に依頼。その製作費用は建物建設費用とほぼ同額になったと言われています。

旧山口萬吉邸とは

旧山口萬吉邸は大正15年1月に着工しました。建設期間中は内藤、木子(木子が長期海外出張中は、吉田鉄郎に代役を依頼)、今井が何度も建設現場を訪れ、工事の指導にあたったことが現場日誌に記録されています。多くの関係者が関与、設計変更や工期延長等もありましたが、昭和2年10月に竣工。竣工後は、山口萬吉邸として、多くの使用人とともに生活していました。
その後激動の時代に突入、太平洋戦争へと突き進んでいきます。
昭和20年に入ると、日本のあらゆる都市は空襲を受けるようになり、大きな被害を受けました。特に3月10日の東京大空襲では大量の焼夷弾が投下され、多くの木造建物が焼失しています。その中で、鉄筋コンクリートで施工された旧山口萬吉邸はその姿を保ち続けました。
一方、多くの家具は空襲を避けるため長岡へ「疎開」させます。しかし、その長岡が空襲を受け、移動途上で鉄道貨物車ごと焼失してしまいます。
終戦後は他の多くの建築物同様GHQに接収されました。
GHQ将校の居宅として使用された後返還されましたが、それ以降も外国政府の関係機関やフルブライト委員会等への賃貸が続き、20年近い期間、他人の手に委ねられました。
昭和38年から、再び居宅として山口萬吉の子息一家が使用することとなり、ようやく元の姿を取り戻します。ところが時代は高度成長期を経てバブル期を迎え、地価高騰、開発の波に晒されることになります。周囲の建物が老朽化や高度利用といった理由によって次々と建て替えられていく中、旧山口萬吉邸は頑なに沈黙を保ち、その姿を維持してきました。
東京都千代田区という都心部にありながら90年もの間、激動の時代を乗り越え、取り壊されることなくほぼ建築当時のままの姿を遺している旧山口萬吉邸は、奇跡とも言える建築物です。

旧山口萬吉邸の特徴

旧山口萬吉邸は、2018年5月に「登録有形文化財」として、文化財登録原簿に登録されました。以下の2点にその歴史的な価値が認められています。
まず、関東大震災後に設計されたこの邸宅が、後に「耐震設計の父」と言われる内藤多仲の構造設計による壁式鉄筋コンクリート造であること。震災を経験し、耐震性・耐火性を重視した設計であろうと想像できますが、壁の厚さが8寸(24cm)に及ぶなど、その耐震性能は現在の新耐震基準を遥かに上回っています。
そしてアーチ、スタッコ壁、スパニッシュ瓦など当時流行したスパニッシュの建築様式を施していること。これは山口萬吉邸と同時期に設計された、内藤多仲邸の意匠設計を行った木子七郎および今井兼次によるものです。壁式鉄筋コンクリート造により大空間が作れないという制約がある中で、和室など日本的な要素も巧みに取り入れ、和と洋が高い次元で共存する建物に仕上がっています。
山口萬吉邸は、ひとつの建物の中でプライベート空間とパブリック空間を明確に区分し、お客様をもてなすための部屋、家族の部屋、女中部屋、物置・機械室など、地上3階地下1階の4層からなるフロアと部屋ごとに特徴を持っています。加えて1階のスクリーンポーチ、2階のベランダー、3階の屋上など、半屋外空間が多数存在、「庭」と「建物の中」を連続的かつ立体的に繋ぐことで、四季を肌で感じながら過ごすことができる構造です。

今プロジェクトへの想い

今回の改修にあたっては、この空間はこう使わなければならないという固定概念を捨てて設計することとしました。また、竣工当時の石炭ボイラー等の設備、家具や照明器具等の調度品を随所に残しています。旧山口萬吉邸をご利用される皆様が、様々な使い方を通して新たな利用方法を発見して頂き、それを今後の運営に役立てていきたいと考えています。
日本における近代建築は、土地の高度利用に伴う建替えや相続による売却など、特に都心部においては急速に姿を消しつつあります。その中でこの旧山口萬吉邸は所有者を始め、この建物を遺したいと想う人々が幸運にも集まったことでプロジェクトがスタートしました。東京の都心において日本の歴史、文化、景観が失われていく中で『kudan house』は文化遺産(レガシー)を活かすモデルプロジェクトとして、国内外に新たな文化を発信していきたいと考えています。

内藤多仲
建築構造学者・構造設計 / 1886-1970)
東京帝国大学卒業。耐震壁を用いた構造理論を考案。日本建築学会会長・早稲田大学理工学部長などを歴任。「耐震設計の父」と呼ばれ東京タワー・2代目通天閣など現存する多くの塔を手掛ける。『旭日重光章』受賞。
主な作品:旧日本興行銀行本店、明治生命館、日本電波塔(東京タワー)等
木子七郎
建築家・意匠設計 / 1884-1955)
宮廷建築家の名門・木子家の四男。大林組を経て独立。和と洋を組み合わせた建築は高い評価を得て、県庁・学校・病院・オフィスビル・住宅に至るまで、多岐に渡り多くの傑作を残す。『レジオン・ドヌール勲章』受賞。
主な作品:松山大学温山記念会館(旧新田邸)、萬翠荘(旧久松伯爵本邸)、愛媛県庁舎本館等
今井健次
建築家・意匠設計 / 1895-1987)
早稲田大学名誉教授。自ら学校や記念館等の建築を行うと共に教鞭をとり多くの建築家を輩出。武蔵野美術大学・多摩美術大学の設立に尽力。ガウディを日本に初めて紹介した人物としても有名。『日本芸術院賞』受賞。
主な作品:早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、碌山美術館、日本二十六聖人記念館等
吉田鉄郎
建築家・意匠設計 / 1894-1956)
逓信省営繕課に入省、多くの逓信建築を手がけた。建築家であるとともに、庭園研究家としても知られる。「日本の住宅」「日本の建築」等を執筆。「日本建築学会賞」受賞。
主な作品:新風館(旧京都中央電話局)、東京中央郵便局、大阪中央郵便局等
梶田恵
家具・インテリアデザイン / 1890-1948)
東京美術学校で学び、梶田工房を設立。鳩山一郎邸、明治生命館などの家具・装飾を手掛ける。西洋的で繊細な木工家具は海外でも高い評価を得る日本を代表するデザイナー。『アール・デコ展』入賞。
主な作品:鳩山一郎邸、岡田信一郎邸、明治生命館等

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